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ウクライナの有名な詩人の博物館に行ってきた

ウクライナの超有名な詩人、タラス・シェフチェンコの博物館に行ってきました。

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(↑博物館の入口)

タラス・シェフチェンコは私が通う大学に名を冠する、ウクライナを代表する詩人であり画家。詩作を通してウクライナ語のモデルを作ったとも言われている。

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(↑タラス・シェフチェンコの自画像)

大学近辺はタラス・シェフチェンコだらけで、通りも公園も彼の名を冠している。

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(↑タラス・シェフチェンコ記念公園)

タラス・シェフチェンコは1814年にウクライナ農奴の家に生まれる。幼い頃から絵を描くことが大好きで、壁やドアなどに絵を描いていた。没頭しすぎるあましばしば仕事を忘れ、地主から罰を受けていたそうだ。

17歳のとき地主の専属画家として共にサンクトペテルブルクへ移り、朝は労働をし昼はЛетний сад(夏の庭)へ通い絵を描いた。その頃からシェフチェンコは詩も書き始めた。そこで彼は様々な芸術家と出会い、その才能を高く評価した芸術家たちは、シェフチェンコを高額で地主から買い取り彼を農奴から解放した。自由になったシェフチェンコは芸術学校へと通い、最終的には学校を卒業し、キエフの大学で美術の教師を務めることになった。

シェフチェンコウクライナ語で詩を書いたが、その内容が皇帝を批判するようなものであったため10年ほどカザフスタンで兵役を命じられた。兵士として仕事をこなしつつも、シェフチェンコは隙を見てカザフ人の日常やカザフの風景などを描いた。その後シェフチェンコの友人の尽力によってシェフチェンコは兵役から解放されてウクライナに戻るが、病を患い1861年に亡くなってしまう。

 

はじめ、シェフチェンコもどこにでもいる才能のある画家のうちの1人だろうと思っていた。しかし彼の作品はみずみずしくまるでそこに本当に存在するかのようにリアリティがあり、ただ「綺麗だな」と思った。他の画家とは違う、なにか惹かれる美しさがあった。また、彼は直筆で詩を書くこともしており、その字もまた繊細であった。

芸術には全く疎い私だが、タラス・シェフチェンコは好きな画家の1人に加わった。