就活終わった~!
晴れて第一志望の御社から内定をいただき就活が終えることができました!いえーい!
私は3年生の冬(1月)から本格的に就活を始めて、そこから紆余曲折経てIT系の中小企業一本で就活をして、無事第一志望から内々定を貰いました。
この記事では就活を実際にしてみてどうだったのか、自分がどんな就活をしたのか、どうすればもっと良い就活ができたのかという就活総まとめ兼感想を書いていきたいと思います。
〇就活開始前の、就活に対するイメージ
私は留学の影響で卒業を一年先延ばしにしていたので、20卒の同期の就活の様子を昨年度ずっと見ていました。私は同期から聞く話やネットでたまに見る就活関連の記事・ツイートから就活に対して以下のような印象を持っていました。
・とにかくつらい
私の知り合いの多くは7,8月までひとつも内定をもらえない無内定という状態でした。何十社も受けてやっと内定が出る…人事に心無いことを言われたりセクハラされたり、ES(エントリーシート)すら通らなかったり…売り手市場とは言われているけど、企業を選ぶ余裕なんてないんだろうと思っていました。
・金がかかりまくる
主に交通費の面でかかる印象でした。私の大学は関東にありますが東京23区まで行くのに片道2K~3K円かかります。時間も1.5時間~2時間半かかります。また、面接や説明会前後にカフェに寄って時間を潰したり…落ちまくるから面接や説明会に行きまくって、余計お金がかかる。5~10万くらい?そんなイメージ。
・自分を偽って企業に媚を売らなければいけない
面接ではシンデレラストーリーのような山あり谷ありのスゴイ経験が求められ、説明会やOBG訪問でヘコヘコしなくちゃいけない…と思っていました。ノックは何回とかOBG訪問の時には相手と同じものを頼んで同じペースで食べないと評価マイナスとか、就活特有の意味不明マナーも。
・インターン行く意味あんの?
インターンで何をやってるのかよく分かっていなかったので、インターンに行く意味がわかりませんでした。先輩からは1dayインターンでは自己分析と会社説明しかやらないし行く意味無いとも聞いていたので…
〇実際に就活をしてみて:就活変遷
2019年5月(3年生初夏):来年就活だなあ~と思うだけ
情報収集とかしといたほうがいい?夏のインターンとか行くべきなのかな?とは思いつつも、インターンに参加してみたい業界も企業もわからず、結局何もしなかった。有名企業のインターンを調べるも、別にそこに行きたい気持ちがあったわけではないので応募する気にもなれず。ふつーに春夏は授業に行きバイトでお金を稼ぎ、遊んでました。
2019年10,11月頃(3年生秋):そろそろ本格的に情報収集を始めるべきでは?
もうそろそろ、企業調べや業界研究をしたり、面接がどんな感じで行われるか知っておいたほうが良いのではないかと思い始めた時期でした。平日は授業が詰まっていたし土日もなんやかんや用事があって実際にインターンや合説に行くことはせず、大学内で開催されていた就職セミナーや合説に授業の合間を利用して参加していました。
当時の就活の軸は「ロシア語が活かせる企業」で、合説の前に参加企業のホームページを見てロシア語圏に駐在出来たりロシアと取引をしている会社をピックアップして説明を聞きに行ってました。なので業界を特に絞ることはせず、商社や重機、半導体メーカー、食品系など様々な企業を見ていました。けど、しっくりくる企業はありませんでした。
2019年12月(3年生冬):就活の軸への違和感
この頃からナビサイトに登録した気がします。SPIの勉強もちょっとしてたかな。
10月頃からロシア語圏に関わりのある企業や業界を少し見ていて、ずっと何かが違うという違和感を抱えていました。今振り返ってみると、当時の違和感は以下のように言語化されるんじゃないかなと思います。
・扱う商材に興味がない
・業界(特に商社)にいる人の雰囲気が合わない
ネジとか車とか重機とか、全く興味が持てなかったし、食品系も、食べること自体は好きではあったけど、選考を受けるほどの興味関心の強さはなかったし動機にもならなかった。
世界でビジネスを展開している人たちは、英語至上主義者であり、欲しいのはロシア語人材ではなくビジネスの素養がある人。ビジネスの世界でははっきり言って英語以外は必要とされないし、他の言語ができても英語がビジネスレベルでできなければバカにされるし、下に見られる。世界展開するような企業には意識が高い人が集まるし、そういう企業は昇進などの内部競争も激しい。さらには説明会で夢や希望、挑戦といった曖昧なものを押し出してくる。今にも夕日に向かって走り出してしまいそうな、アツい人が多い。
そんなこんなでなんか違うな…ってずっともやもやしていて、あのまま就活の軸を「ロシア語を活かせる企業」にしていたら私は面接通過どころかESも通らない夏まで無内定就活生になっていたと思う。
2019年年末年始(3年生冬):テキトー×テキトーで生まれた就活の軸
友人のテキトーな一言と私のテキトーなノリで人生が決まってしまった(←ネタバレ)
ある日、友人の家でだらだらしていた時。
わたし「就活マジでどうしようかな~どこも微妙、ピンとこないな~」
友人「IT系とかは?私服通勤OKでゆるいとこあるらしいじゃん、働きたくないしそういうとこにしなよ!w(適当)」
わたし「IT系か~今まで見たことないし説明会行ってみるか!w(適当)」
という適当なノリで年明けの合説でIT企業を見ることに決まった。
実際に合説でIT企業のブースを見てみると、グローバル企業のようにアツく英語ができない人を笑う人は全くいないし、気さくで話しやすい人ばかりだった。あと、文系未経験でも可という企業が多いことにも驚いた。文系出身や未経験が4割~6割を占める企業が多い。プログラミング力や経験というよりは、プログラミングをする素養(数学的思考など)やお客さんとコミュニケーションがとれるかというところを重視しているらしい。現場社員と話をしてみても納期直前以外は定時で帰れるし、職場の雰囲気もゆるゆるしていると感じられた。いい感じだったので1Dayインターンにも数社申し込みました。
2020年1~2月(3年生冬):IT系、楽しい!内々定も出ちゃったが…?
採用活動解禁前のこの2カ月は、合説やIT企業のインターンに行って具体的にどんなIT系に行きたいのか見極める期間でした。業界への志望動機や就活の軸を細かく突き詰めました。
実際にインターンでごく簡単な開発・プログラミング体験や現場社員さんと話をしてみると、プログラミングがすごく楽しいことがわかりました。
どこが楽しいかって、同じ機能の実装でもコードの書き方が数種類あること、人の書いたコードを理解すること、エラーが出た時にどこがどう間違っているのかを考えること、この3つがとても面白かったです。
プログラミング体験をしていくうちに、自分が高校時代に数学が一番得意で好きだったことを思い出し、プログラミングは数学の記述問題に非常によく似ていることに気が付きました。例えば三角形の面積を求めるにしても、底辺×高さという基本的な公式から三角関数やベクトルなど様々な角度からアプローチできるわけです。自分が持っている知識(公式)をいかに有効活用して解いて、いかにわかりやすく記述できるか、そこがとても似ていました。あとは、最終的な答えが違うときにどこで計算を間違えたのか、そもそも全く的外れな記述をしてしまったのではないか?など考えなければいけないところが解きなおしにも似ていました。
これなら仕事が楽しくできそうだと感じて、私はIT系一本で就活することに決めました。これ以外にもIT企業はあまり上下関係に厳しくなく働き方改革にも注力していたので、ストレスフリーにゆるく働きたい私にはぴったりでした。
さらに、1月中旬からとりあえず選考の雰囲気を掴もうと受けてみたIT系企業でトントン拍子に選考をクリアし内々定を貰ってしまいました。あまりにもアッサリしていて、こんなんでいいのか…?就活って、全然内定出なくて苦しいはずでは…?と拍子抜けしました。
2020年3月(3年生春):志望度の高い企業への内々定を目指して
1,2月にインターンや合同説明会に参加して行きたい企業を分析して就活の軸を固め、受ける企業の目星をつけていたので3月はそれらの企業の選考に進むだけでした。
IT業界ではCABという試験が使われるという情報をキャッチしCAB対策本を買って勉強しました。就活口コミサイトによるとIT業界でSPIはあまり使わないとのことだったので、SPIの勉強はやめました。
自己分析などの面接対策は、みん就やONECAREER、就活会議の体験談を読み漁って過去にされた質問に答えられるように準備して行きました。
各会社の選考もトントン拍子に進んでしまい、3月上旬にまたひとつ内々定を貰いました。
2020年4月(4年生春):第一志望から内々定~!
4/8にコロナウイルスによる緊急事態宣言が敷かれてしまい、進めていた選考がほぼ全てストップしてしまいました。第一志望の会社は幸い選考を続行したので、情勢的にはどうなのかと少し思いますが就活生としてはほっとしました。
4月第1週に筆記試験を受け、翌日に通過の連絡をいただき、5日後くらいに最初で最後の面接(第一志望の御社は面接一発勝負だった)、翌日に内々定の連絡!わーい!就活終了、アッサリしすぎ!
〇最終的な就活の印象
そうして就活をサクッと終えてしまったわけですが、前述の始めたての頃と比べてかなり就活の印象が変わりました。
・とにかくつらい→全然つらくない、むしろ刺激になる
これは、私が引き当てた企業が良かったんだと思います。ネットでよく見る嫌味な面接官はいなかったし、選考も1回しか落ちてないから精神的打撃がほとんどなかった。説明会やインターンで首都圏の学生と少し話すのも、陸の孤島と呼ばれる閉じられた空間で暮らす私にとっては新鮮で刺激的だった。面接も当然ながら自分のことをめちゃくちゃ聞かれるわけで、自分語りしまくってある意味承認欲求が満たされたw
・金がかかりまくる→金がかかりまくる
これはそう。金がかかる。が、私は少し工夫してかかるお金を減らした。具体的には、1日に予定を複数入れてはしごする、都内住みの知り合いの家に泊まって2,3日連続都内で活動する、時間つぶしはスタバではなくその辺の公園でする、とか…でも、3カ月くらいで就活終わったし、そんなに数受けなかったからそこまでお金はかからなかった。3カ月で3~4万くらい…?
・自分を偽って企業に媚を売らなければいけない→素の自分で問題ない
OBG訪問とかで誠意(笑)を見せる必要はないし(OBG訪問はしなかった)、無理してバイトリーダーやゼミ長にならなくてもいい。自分がしてきたことを事実として伝えて、そこから得られたこと発見したことを添えるだけでいいと感じた。ノックの回数とか変なマナーに振り回されなくても、人として必要な礼儀さえクリアできていればいい。
でもこれは大手企業とかだったらきちんとしておいたほうが良い気もする…w大手はどれだけOBG訪問したかで加点されたりするらしい。
・インターン行く意味あんの?→めちゃくちゃある
インターンに行く意味とは、①早期選考の案内がもらえる(こともある)②どんな社員がいてどんな働き方をしているかがわかる。
就活早期終了や企業研究につながる。志望動機に深みが出ると思う。IT企業では開発体験を中心に社員と座談会とか会社説明を受けたけど、他の業界では職業体験はもちろん自己分析を手伝ってくれたりするから一人で自己分析するのが難しいとか苦手だって人は行くといいかも。
〇わたしの戦績
数字は志望度、書いてないのは滑り止めの滑り止め、もともと行く気がなかったけどうけたやつ。
⑤E社→内々定(インターン→筆記→役員と現場社員面接→社長面接→内々定)
S社→選考辞退(説明会・筆記→辞退)
④H社→最終面接でサイレント(説明会→適性検査→役員面接→副社長面接→連絡なし)
②C社→選考辞退(説明会・筆記→一次面接→辞退)
③F社→選考辞退(説明会・筆記→辞退)
③T社→選考辞退(説明会・筆記→辞退)
8社受けて3社内々定、祈られたのはサイレントされた企業だけ(サイレントだから祈られてすらいないが…)。自分強すぎて、自慢したい笑 まあH社で祈られたのは第一志望じゃないってハッキリ言ったからな気がするw
〇私的、就活に強い人
・流されない人、自分の意志で動ける人
なんというか、わかりやすく言えば一人でトイレに行ける人、みたいな。小学校で友達と一緒じゃなきゃトイレに行けないタイプの人は就活向いてない気がする。みんながやってるから…とか知名度目当てとか、なんとなくとか親に言われて、とかそういう基準で動いている人はうまくいかないよね。自分の意志で動いてないし価値判断の基準が自分の外にあって流動的だからあっちフラフラこっちフラフラしてる印象。
・結論→具体→結論で話せる人
こういう話し方をしてたら、論理的に話せるとかコミュ力がある、受け答えがクリアで明瞭って評価をされた。「私は、〇〇なんです。なんでかっていうと、××で…。××に至った経緯としては、△△なんです。」みたいな。
まあでも、業界や会社によって違うから参考程度にね…
〇より良い就活をするためには
・早めに動く
就活はいつしてもいいと思うけど、早めにキメておけば春休みに遊べるし、進路が決まって安心できる。そして、卒論や授業とか、1年間やりたいことに没頭できる。内定者枠に余裕があるから、競争率高くない。そのためには10月くらい、年が明ける前には合説やインターンにいってみたほうが良いと思う。
・自己分析をしっかりする。
自分の価値判断基準や好きなもの嫌いなもの、生い立ちや生い立ちが自分に及ぼしたものを知っておくと、それに気づいておくと、就活の軸なるものが定めやすいし志望動機や諸々にそれを織り交ぜて深み(説得力)をだすことができる。
例えば私は、小5~高校卒業までずっと勉強漬けの、自分のやりたいことやすきなことを我慢する抑圧的な生活を送ってきた。部活も生徒会や文化祭っていう活動もできなかった。だから、普通の生活や自由に対するあこがれ、ストレスから解放されたい欲望が強い。仕事でも、ゆるい環境で自分のペースをある程度保ちつつのんびり働いていきたい。それが叶えられるであろう会社が、第一志望の御社であった…
〇おわり
おわり!就活生のみなさん応援しています!病まない程度にほどほどに!
東京でТРКИ-1受けてきました!
東京にある東海大学高輪キャンパスでТРКИ-1を受けてきました!当日の流れや雰囲気、出題内容を今後受ける人のために書きたいと思います。
当日の流れは以下の通りでした。
9:15 集合
~9:45 договорにサイン
9:45~会話(70分間)
11:10~作文(60分間)
~12:45 昼食
12:45~読解(50分間)
13:50~聴解(35分間)
14:40~文法(60分間)
ただ、受験するレベルや人によって時間割は異なるようです。
〇会話
受験者が2人1組が交代で試験をします。問題が渡されるのですが、試験開始時刻より前に、見てていいよ!と言われました。さすがТРКИ…
会話(特に設問3,4)はあまり自信がなかったのでちょっとでも準備の時間が増えてありがたかったです。
以下のような流れでした。
・Aが設問1,2を答えている間Bは設問3,4の準備
・Aの設問1,2が終わったらB設問1,2,3,4を一気にやり、その間にAが設問3,4の準備をする
これも試験官によって変わるのかも知れません。
私たちの試験官はロシア語がペラペラな日本人おばあちゃんで、質問の意味がわからなかったら日本語でこっそり教えてくれたり回答時間にこだわらず私たちの発話を待ってくれました。優しい。そしてガバガバ
試験内容は、覚えている限りになりますが、
設問1 今日の天気は何?/誕生日はいつ?/暇な時は何をしている?/空港までどう行ける?
設問2 友達の誕生日を電話で祝う/レストランで注文する/あなたはジムに通いたいです。ジムのシステムについて質問してください
設問4 本について語る。本を読むのは好きか、誰が読み方を教えてくれたか、友達に本を薦めるとしたらどんな本を薦めるか?(20文以上)
СПбГУやМГУのホームページに載ってる類題や市販の対策本にある問題とほとんど変わらなかったです。
設問4はしっかりと文の数を数えられているのでなんでもいいから話しましょう!
試験時間70分とありますが、私は規定の時間よりも早く終わりました。退出して廊下で待機してました。
〇作文
出題は、
設問1 旅行についての文章を読んで、内容要約と自分が旅行について書く
設問2 友達にテレビについて自分の意見を書いた手紙を送る(1日にどれくらいテレビを見るか、好きな番組はなにか、現代社会はテレビなしでやっていけるか?などの要素を必ず入れる)(※20文以上で)
というものでした。設問2を小難しく考えすぎたのかあんまり上手くかけませんでした 20文ギリギリ😭
こちらは60分きっかり測ってやりました。下書き用のメモ用紙をくれたので助かりました。回答用紙ははじめに1枚配られますが、言えば何枚でも貰えます。
〇お昼休み
ちょうど受験日が平日だったので東海大学の学食が開いており、せっかくなので学食で食べてきました。鶏天丼450円、お吸い物つき。美味しかった!食べるのが遅いので時間ギリギリになってしまいました。
〇読解
出題内容
設問1 ピョートル大帝が建てたロシアにある美術館の話
設問2 ロシアの有名なピアニストに関する文章
設問3 マースレニッツァに関する文章
どの問題もページ半分くらいの分量で、問題は4~7問くらいでした。15分くらいで解き終わってしまい暇でした。ネットに転がってる類題はもう少し骨のあるものだったので驚きました。
こちらも50分きっかり測って解きました。
〇聴解
聴解は、
・友達からきた手紙の内容
・ガガーリンの生涯
・男性が電話でピザを注文する時の会話
・ロシアの有名な観光地について
・夏休みのバカンスの話
という内容でした。CDで音声を流しました。会話のスピードがゆっくりなのでわかりやすかったです。流れる内容全てが設問にかかわる訳では無いので事前に問題文を読み注意深く聞いていれば答えられると思います。聞きながら問題を解いて、各設問の後に1分くらいの間があるので、そこで次の問題を読み込みましょう!
〇文法
前置詞の使い方、動詞の体、移動動詞、格要求などなど基本的な文法知識や語彙を問う出題ばかりでした。サンクトペテルブルク大学が公開してるオリジナル問題とそっくりでした。(まあこのТРКИはサンクトの大学が手伝ってくれてるようなので)
60分きっかり試験時間を設けましたが、20分くらいで解き終わってしまい暇でした。
どの科目も基本的な事項が抑えられていれば大丈夫そう…?事前に類題を解いて対策すれば安心です!
ロシアでのТРКИは2日間に分けて行うそうなんですが、日本のは1日で全部やってしまうのでほんっっっとに疲れました_(:З」∠)_
受験料も22000円と高いし、これならウラジオストクとかモスクワに行って観光しつつ日本以上にガバガバと言われるТРКИを現地で受けたほうがいいのかなと思いました。(ロシアに行くほうが高くつきますけど観光もできるで満足度は高いですよね…)ロシアのТРКИ は7,8千円くらいらしいですね 安っ!
そんなかんじで、ТРКИ でした。
受かってますように…😑🙏
キエフ国立大学博物館
タラスシェフチェンコ記念キエフ国立大学に併設されている博物館に行ってきました。授業の一環です。
博物館が併設されてる建物は、日本語のガイドブックにも載っているこの赤い建物。
3階に、小規模ではあるものの大学の歴史を展示した博物館があります。入場料は無料でした。(一般に公開しているかどうかはわかりません)
キエフ国立大学は19世紀に聖ウラジミール記念帝国大学として建てられ、その後20世紀にタラス・シェフチェンコ記念国立大学に名称を変え現在に至ります。当初は哲学部(歴史・言語学科と物理・数学科の2学科)のみで、開設当初の学生数はたったの62人だったそうです。現在は13学部8研究所があります。(КНУ имени Тараса Шевченко より)
扉を開けて中に入るとシェフチェンコ像がお出迎え。
展示の中で最も印象的だったのは、当時の学生生活の厳しさ。
これが当時の時間割で、朝8時から夜7時までみっちり授業。休み時間はなし…!学生は先生に失礼な態度をとったりテストの出来が悪かったりすると牢屋に2,3日から1週間ほど入れられたそうです。
牢屋には机と寝具のないベッド、筆記用具一式が置いてあり、牢屋に入れられた学生はそこで勉強させられたそうです。
一番罰が重かったのが「遅刻」。というのも、講義が行われるフロアは学生達が寝泊まりするフロアの真下にあってものの1分ほどで教室についてしまうから…だそうです。厳しい。
そして、革命や東部での戦争で亡くなった学生の写真も展示してありました。
現在も東部戦線に志願兵として参加している学生はいるそうですが、みんな無事に帰って来れているとのことです。
WWII博物館
第二次世界大戦博物館に行ってきました。
この博物館は野外と屋内の展示があって、野外展示は入場料無料。屋内の展示は2018年12月現在30フリヴニャ(約120円)
野外には対戦で使われた戦闘機がたくさん展示してあって、ミリオタはこういうの好きかもしれない。
この博物館は東部戦争の展示がほんの少しと、WWIIの独ソ戦の展示が大部分を占めている。その中でも特にソ連、ウクライナに焦点を置いて、視覚的に迫るような展示がされています。
中へ入ると、東部戦線の展示が飛び込んできます。反露色は見受けられず、ただ兵士の所持品や武器を展示しているといった印象。
館内の展示の8割はWWIIの独ソ戦でした。独ソ戦の始まりからキエフ解放までの歴史が展示されています。独ソ戦の中のウクライナに焦点を当てているようです。
WWII関連の新聞、書類、武器などなど
ドイツ軍と赤軍の進退・攻防の様子が図に表されている。
印象深かったのは、ナチス占領下の展示。
ラトビアの収容キャンプの写真。色々な国籍の、10万人以上もの人が殺された。
人の皮で作った手袋と、人の脂肪で作った石鹸。
人骨粉砕機。たったの2ヶ月で6万人分の骨を砕いた。そのうち子供は6千人いたという。
ナチスが強制収容所を作ってそこで残虐なことをしていたのは知っていたしはヒトの利用できる部分は全て利用して色々なものを作っていたものどこかで聞いて知っていたけど、実際にこうして実物(かどうかはわからないけど)を見ると、WWIIの時代に、この地域に生まれなくてよかった。これを作ってた人はどういう気持ちだったんだろう?月並みな感想だけど…
この日は日が出る前から雪が降っていて、博物館の建物の外に展示してある銅像に雪が積もっていた。こういう銅像は雪を被っていたほうが雰囲気がでるよなあ
聞くところによると、この博物館は歴史修正が著しいらしい。残念ながら私はWWIIについては全く知らないため、どこがどう歴史修正がされているのか判断がつかない。もう少し勉強してまた来てみたい。
フロアリーダー選出会議
今日、夜突然寮のおばちゃんが部屋に来て、
「5分後に会議開くから1階に来て!」
と言い放った。なにか重要な会議なのかと聞いてもよく知らないと言う。重要なものだったらどうしよう、行かないことで何か不利益があったらどうしようと不安になって、行ってみた。
会議はそこまで重要なものでもなかった。私が住んでいる階の学生全員が集まり、 フロアリーダーを決めるというものだったが、来ていたのは60何人中15人~20人くらい。会議では、寮の管理人さんが寮で守って欲しいルールを確認し、そのあとフロアリーダーなるものを決めた。リーダーを決めると言われた時、授業で忙しいしめんどくさい仕事を増やしたくないから勘弁して欲しいな~ロシア語わかるからって押し付けられたらどうしようってヒヤりとしたけど、ロシア語かウクライナ語をよく知っている中国人とトルクメン人を1人ずつ選ぶことになり(人工的に)安心して会議の様子を眺めることが出来た
どうやって決めるのか見物していたけど、管理人が名簿から無作為に名前を読み上げてこの人がいいと思う人ー!と強制的な選挙をした。指名された人は苦い顔。それ以外の人はサッと手を上げる。即決。そんなんでいいのかと思う。まあ、誰もやりたがらないしこうでもしないと決まらないから。
面白かった
やっぱ面白そうなものには顔を出してみるもんだよな~
1943年11月6日 キエフ解放の日
今から75年前の11月6日、キエフがナチス・ドイツから解放された。この日はキエフ解放の日(День освобождения Киева)になっているが、戦勝記念日(День Победы)と同様に大々的に祝うことはされていない。( День освобождения Киева в современной Украине больше не праздник — Российская газета より)
キエフは778日間に渡ってナチス・ドイツの支配下に置かれ、その間約200人が犠牲になった。( В День освобождения Киева от фашистов парк Вечной Славы утопили в цветах - 06.11.2018 - Украина.ру より)
11月8日今日、永遠の栄光公園(Парк Вечной Славы)にて子供たちによる小さなパレードが行われていた。ペチェルシク修道院に行こうとしていたところ、偶然遭遇した。
ウクライナの有名な詩人の博物館に行ってきた
ウクライナの超有名な詩人、タラス・シェフチェンコの博物館に行ってきました。
(↑博物館の入口)
タラス・シェフチェンコは私が通う大学に名を冠する、ウクライナを代表する詩人であり画家。詩作を通してウクライナ語のモデルを作ったとも言われている。
(↑タラス・シェフチェンコの自画像)
大学近辺はタラス・シェフチェンコだらけで、通りも公園も彼の名を冠している。
(↑タラス・シェフチェンコ記念公園)
タラス・シェフチェンコは1814年にウクライナの農奴の家に生まれる。幼い頃から絵を描くことが大好きで、壁やドアなどに絵を描いていた。没頭しすぎるあましばしば仕事を忘れ、地主から罰を受けていたそうだ。
17歳のとき地主の専属画家として共にサンクトペテルブルクへ移り、朝は労働をし昼はЛетний сад(夏の庭)へ通い絵を描いた。その頃からシェフチェンコは詩も書き始めた。そこで彼は様々な芸術家と出会い、その才能を高く評価した芸術家たちは、シェフチェンコを高額で地主から買い取り彼を農奴から解放した。自由になったシェフチェンコは芸術学校へと通い、最終的には学校を卒業し、キエフの大学で美術の教師を務めることになった。
シェフチェンコはウクライナ語で詩を書いたが、その内容が皇帝を批判するようなものであったため10年ほどカザフスタンで兵役を命じられた。兵士として仕事をこなしつつも、シェフチェンコは隙を見てカザフ人の日常やカザフの風景などを描いた。その後シェフチェンコの友人の尽力によってシェフチェンコは兵役から解放されてウクライナに戻るが、病を患い1861年に亡くなってしまう。
はじめ、シェフチェンコもどこにでもいる才能のある画家のうちの1人だろうと思っていた。しかし彼の作品はみずみずしくまるでそこに本当に存在するかのようにリアリティがあり、ただ「綺麗だな」と思った。他の画家とは違う、なにか惹かれる美しさがあった。また、彼は直筆で詩を書くこともしており、その字もまた繊細であった。
芸術には全く疎い私だが、タラス・シェフチェンコは好きな画家の1人に加わった。