やきとり

ゆるゆる書いていき!

根深いトラウマを残した部屋替え事件

 

 

 キエフ大学で学んでいる留学生は基本的に寮に住んでいる。(中には自分で家を借りて住んでいる人もいる。)

 

3月、ここに来た時私は大多数の人がそうしているように寮に入った。しかしあてがわれた部屋は弊学の宿舎よりも汚く、床にほこりやごみが散乱し、ベッドマット髪の毛やら虫がびっしり。ルームメイトはなんだか怖いし生活習慣も合わなかったため1週間で寮を(無断で)出た。

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(↑私のベッドスペース 初めて見た時、ベッドマットに髪の毛やらホコリやら虫やらめっちゃ付いてるし床はゴミだらけだしめちゃくちゃ汚くて第一印象最悪だった)

 

そうして半年後の9月、私は諸事情により寮へ戻った。ところが寮へ戻る際、この上ない苦しみを味わい、トラウマを負った。ウクライナが嫌いにさえなった。ウクライナは食事も美味しいし教会や街並みもヨーロッパ風で綺麗な国だ。物価も日本と比べて半分以上も低い。私はこの事件が起こるまで、ウクライナはいいところだよと言っていたし、本当にそう思っていた。しかしこの事件の後は、ウクライナはいいところだと胸を張って言えないし、早く日本へ帰りたいと思うようになった。旅行や短期の海外研修と留学の違いってこういうところにあるんだなと思った。

 

 

 

 

ここでは、寮を出て再び戻るまでの経緯を書いていく。

 

寮を出た後の暮らし

Airbnbで居候先を探し、一般ウクライナ人家庭に逃げ込んだ。洗濯機もあるし、シャワーも常にお湯が出る。ゴキブリもでないし、部屋は清潔で綺麗だった。

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(↑退避先のお部屋)

 

周りには便宜上ホームステイと言っていたが、実情はホームステイではなかった。ホームステイでというと、ホストマザーに毎日おいしいご飯を作ってもらい、休日はファミリーと一緒に出かける…といった暮らしを想像するだろうが、実際のところ食事に始まり洗濯や掃除も自分でやっていたし、休日どこかに連れていってもらうということもなかった。ただ部屋を借り、家にある設備一式を使わせてもらっていたというだけだった。まあ、ウクライナの諸システムを教えてもらったり雑談もしていたから、そんなに隔絶した関係でもなかった。家賃は月3万円。これは、かなり高い。日本の物価からするとそこまで高くないかもしれないが、ウクライナの物価で考えるとかなり高い。ウクライナの平均月収に相当する額だ。その上、月の生活費は2万円と、合計すると月々5万円の出費となる。毎月7万円の奨学金を貰ってるとはいえできるだけ多く貯金して旅行に行きたかったため、この家賃3万円の出費は私にとって痛いものであった。

 

寮へ戻らないか、という提案

6月末、帰国を控えていた寮住みの日本人から、自分の部屋に入れ替わりで入らないかと連絡が来た。彼女が日本へ帰ったあと、彼女が住んでいた部屋に私が入るのはどうか、という提案だった。正直住んでいた家の家賃は財布を圧迫していたし、日本人学生のルームメイトも綺麗好きでまじめな人だと聞いていた。そのルームメイトも見知らぬ不真面目な人が新たに来るよりは多少なりとも素性と性格の知れた私と住んだ方がいいと考えていたようだ。どこにもマイナスの要素はないし、寮に戻って部屋を替え一緒に住むということで合意した。

 

しかしこれが、全ての始まりであった。

 

部屋替えをしに寮へ再び

部屋替えをするために必要な手続きは以下の通りだ。

①寮母さんと管理事務所へ部屋の空きを確認

②それぞれから了承を得たのち、部屋替えの申請書を寮母さんから受け取る

③寮母さんと管理事務所からサインをもらう

④管理事務所に提出する

という流れである。

6月末の金曜日、連絡が来てすぐ寮に赴いた。寮母さんのからは了承を得られたが、管理事務所からは部屋が完全に空室になってから来るようにといわれた。学年度の終わりで管理事務所はとても忙しく、イライラしていた。怖かった。

本当ならできるだけ早く申請をしに行きたかったのだが、7月は旅行とサマースクールでウクライナにいることが出来なかったので、8月になってから再び寮を訪れた。部屋が埋まっているのではないかとひやひやしていたが、運のいいことに部屋はまだ空いていた。管理事務所の職員は部屋替えを了承してくれ、職員さん側で何やらパソコンをカタカタし、彼は部屋替え完了!と言った。日本人学生は、部屋替えの際は申請書を書き各所でサインをもらうと言っていたが、ウクライナは結構手続きがガバガバで担当職員によって言うことが変わるので、今回もそんなかんじで申請書ナシで変更できたのかな、手間が省けてラッキーだな、と思っていた。

 

継続申請書を手に入れろ

私は寮母さんのもとへ管理事務所で承諾を貰ったことを報告しに行った。しかし、彼女が放った一言「継続申請書が必要だから部屋替えはできないよ

6月末と言っていることが違うじゃないか!あなたが言う通りに管理事務所から承諾してもらったんですけど!意味が分からない。

こちらでは6月に学年度が終わり、新年度へ向けた更新が必要だ。私はそのことをすっかり忘れていた。継続申請が必要なら6月末に言ってくれ。ここでは、必要な情報は自分で手に入れなければいけない。存在すら誰も教えてくれない。サバンナよりも過酷。

 

旧ソ連伝統芸能の連続

継続申請書は大学の留学生課でもらえるというのでそこへ急ぐと、担当の人が今週中に作り完成したら連絡することを約束した。しかし週末になっても連絡が来ないので、確認しに行くと担当者は休暇に出たという。意味が分からない…やると言った仕事をやらずに休暇に出るなんて…仕事に関して雑旧ソ連伝統芸能だ。なんとかするために、様々な場所をたらい回しにされた。たらい回しも、旧ソ連伝統芸能。3,4か所ほどたらい回された。途中、書類のコピーを手に入れることが出来たが、サインがないために効力がなかった。サインくらい10秒くらいでできるはずだろうに、なぜサインもせずに休暇に出てしまったのか…最終的に管理事務所の何者なのかよくわからないおばさんのもとへ行き、正式な書類として認められた。ここまで来るのにあらゆる場所で事情を1から10まで説明し(いうまでもなくロシア語で)、次こそはうまくいくだろうと信じたが、なかなかうまくいかなかった。その上、ウクライナ人は私がすべてを説明し終える前にわかったわかったと言い、全く事情が伝わらない。言いたいことを言う前に指示を出され、そっちに行ってとたらい回される。もう、心身ともにへとへとで、すり減っていた…

 

今の棟に住めない?不安と戦う週末

やっとのことで有効な継続申請書を得たが、そこには驚愕のメモが残されることが明らかになった。「現在籍を置いている棟への居住は認めない」(そのメモはウクライナ語でありかつ手書きの文字であったので、私は指摘されるまで読むことが出来なかった)

急いで寮へ行ったが寮母さんはすでに退勤しており、レセプションのおばちゃんたちに話をするも「私の仕事の範囲ではないから何も言えない」「あんたはここに住めないのよ!!」など、傷に塩を塗られた。その日は金曜日。土日は基本的にお休みだ。前住んでいた家はすでに引き払ってしまった。もう戻れない。家がない。自分の住まいがどうなるのか、平穏な生活を手に入れられるのかわからない。仕方がないから、いそいでホステルを予約して2、3日ほどそこで暮らした。疲れからか不幸にも土日に衝突してしまったため、解決へ向けて何か動きたくてもどうすることもできなかった。勉強も何も手がつかず、不安にひたすら耐える以外なす術がなかった。

 

ひとまず、寮には戻れる

月曜日になり寮母さんを尋ねると、もともと籍を置いていた部屋に住むことは認めてもらえた。メモの件も上司に聞くから待つよう言われた。

とりあえず住居を手に入れたので一安心だが、当初の目的は部屋を変えることだ。まだ終わっていない。この部屋は汚いし、私が使えるコンセントは壊れている。勉強するには向いてない。早く部屋を変えて落ち着いた生活を送りたかった。

 

3人部屋に、4人の女子

授業を終え寮生活に必要なものをあちこち買い回ってへとへとになって帰宅すると、また問題が起きた。私のベッドに、知らない女の子がいたのだ。その子は、このベッドは私のものだと主張する。

ダブルブッキングのようなものだ。管理事務所の職員は私がとっくに新しい部屋に移り私のスペースは空いていると思っていその子を入居させたのだろう。職員の手元のデータと寮母さんのデータが一致していなかったのだと思う。情報共有と意思疎通がなされていなかった。このような縦横の情報共有がなされていないことも、旧ソ連伝統芸能の一つ。その女の子は気が強いようで、周りが何度日本人であると言っても私のことをチュウゴクジン呼ばわりし、「ここは私の部屋。あんた、書類あんの?見せたら動いてあげる。」の1点張りだった。不幸なことに、なぜか私は他の学生とは違い入居にあたってお金を払ったり大量の入居申請書を提出する必要がなく、書類と言われても何のことかよくわからないし、証明する術をもたなかった。こっちはへとへとで精神的にも限界が来ているのに次から次へと事件が起こる。もう勘弁してほしかった。レセプションのおばちゃんたちに助けを求めても、書類、書類というだけで空き部屋を一時的に使う等の案を出してもスルーされた。ここのひとたちは書類を深く愛しているのだ。結局この夜はその女の子が友達の部屋で寝ることで落ち着いた。しかしこのままでは片方の居場所がなくなってしまうので、少しでも早くなんとかしなくてはいけなくなってしまった。

翌日正午、ダブルブッキング事件とメモの件について聞きに行くと、寮母さんはまだ何もしていなかったという。電話一本で済む話だろうに。メモの件について自分で聞きに行くこともできるというので指示された人物を尋ねに行くと、その人は継続申請書のコピーにサインをした。寮母さんのところへ持っていくと、なんだか知らないがうまくいったらしい。

 

管理事務所の裏切り

部屋替え申請書を貰うことが出来た。ここに管理人さんのサインを貰えば部屋替えができる。やっとおわりが見えた!私の苦労が報われる!とうれしくて駆け足で管理人のもとへ行った。

しかし管理人からもらったものは、サインではなく絶望。

 「あんたの部屋は元の部屋のまま。寮母にそう言われた。もうあの部屋は満室だから

は???部屋変えていいって言ったやんけ!裏切者!

猛抗議した。しかし何を言っても「質問は寮母へどうぞ」私が不安と闘いながら頑張ったのは水の泡だった。泡にすらならなかったのかもしれない。寮母さんのところに事情を聞きに行った。抗議の言葉を発しようとした。悔しさ、悲しみ、憎しみ、色々な負の感情に呑まれ、涙が出た。交渉に行くにも事前に言うことを考えて頭の中で繰り返し、出てきそうな単語も調べて覚えて、自分の希望が叶うようにきちんと自己主張し反論しなければいけないと緊張の連続で、極度に心配性で不安になりやすい私は夜もあまり寝られなかった。行けと言われたところに行って、事情を説明して、あんなに頑張ったのに、ウクライナ人はすぐ事態を斜め上の方向にもっていく。すぐ裏切る…。もう、こんな結果に終わるなんて…

 

代替案

泣いてしまった私を見て寮母さんは大慌てで綺麗で静かな部屋を用意することを約束してくれた。新しい部屋の住人に挨拶に行き引越について話すと、あまりいい顔をしなかった。そりゃそうだ。いきなり知らないチュウゴクジンが来てあなたの部屋に今度から住むなんて言うのだ。難色を示すのも当たり前だろう。私はもう疲れてしまい、これ以上何かを頑張る気になれなかった。寮母さんの心遣いも断わり、結局部屋は変えないまま自分なりに住みやすい環境を作っていこうと決めた。

 

終結

暮らしてみれば、初めは怖かったルームメイトも案外分かり合えそうだし仲良くできそうだ。一年間寮に住んでもよかったのかもしれない。あまりきれいになったとは言えないが、部屋の掃除もちゃんとした。ゴキブリがよく出る以外は特に何も問題はない。ゴキブリももう見慣れて、無心で駆除することが出来るようになった。コンセントも修理してもらった。初めて来たときよりは、だいぶ住みやすくなった。もう慣れた。

半年前の私はキエフに来たばかりで知り合いもおらずただ心細く怯えていたのかもしれない。一緒に住むんだから、怖がらずに話し合い要望を伝えていくべきだった。そうしていればこのような事態に陥ることはなかっただろう。

これからも、何があるかわからない、これを書いている今現在もこの事件ほどではないがちょっとした問題を抱えている。部屋替えのことを思い出して、また不安になる。またあのような辛い思いをすることになったらどうしよう。

 

残り数カ月、何も起きませんように。正直もうこんな思いはしたくない。もう、トラウマだ。平穏な生活を送って、無事帰国できますように…

 

 

11月16日追記

この時の自分は、本当に頑張ったなと思う。手続きの件でも精神的な面でも頼れる人が誰もいなくて、泣きたいけど1人になれる場所がないから泣けなくて我慢するしかなくて、ストレスをためこむばかりで本当につらかった。腹痛と頭痛が止まらなかったしストレスで死ぬかと思った。もうこんな思いはしたくない。思い出すだけでも涙が出てくる。フェイスブックに同様の記事を更新した時、友人や既に留学を終えた先輩は「大変そうだねー」

「そのうち笑い話になるって!」「これぞ旧ソ連留学の醍醐味」とかぬくぬくした外野からコメントを飛ばしてきた。私はこれを笑い話にする気はないし、一生笑い話にできない。それくらいつらくて心身ともに死ぬような出来事だった。

どれだけ辛いことがあっても頼れるのは自分だけ。